腕組みが解けるまで

土屋 GET DOWN のブログです。私の日常を綴ります。あとは音楽と本のことを少々。

彼女の日

 今日はパンが二割引きだ。

 贔屓にしているパン屋が、全品二割引なのだ。

 私は太ももをペチンと一発、自転車を急がせる。

 海辺の我が家で潮風にさらされ続けている愛機は、相変わらずのキシみ具合だ。

 踏み込めば蛾の鱗粉よろしく、サビがパッと舞って、サラサラと尾を引く。

 だが、私は立ちこぎも辞さない覚悟だ。

 台風が近づいているせいか風が強いが、なんの、この勢いは止められない。

 それほどに、今日はパンの日なのだ。

 それに、彼女にもまた会える。


 商店街へドリフト気味に滑りこみ、その勢いのままヤッと飛び降る。

 驚きのあまり買い物袋を胸に抱えて後ずさりする奥様がたを横目に、稀代の名馬の手綱を引くような足取りで優雅に押しチャリを励行、目的のパン屋を見据える。

 
「本日二割引き」の張り紙が縦横無尽に貼られ、ショーウィンドウからパンを伺い見ることはできない。もはやパン屋を逸脱し、二割引を主張する政治結社に見える。

 きっとマニフェストは〝毎日がパン・ド・ミ ~お財布に優しくて~〟だろう。

 私は軒先に自転車を駐めながら、そのような政治的運動になら身を投じても構わないと、胸を張りつつ店内へと向かう。

 

 自動ドアが開いたと同時に、焼きたてのパンの香りが私を強くハグした。

 数年来会ってないような歓迎ぶりだ。

 感激に私も思わず抱き返す。ははっ、どうした? 一週間前にも会っただろう?

 隣にいたおばさんの憐れんだ目は生涯忘れない。

 あれ? 以前にも似たようなことがあったような。

 まあいい。思い出せないのなら些末なことだ。

 

 私はなかなかハグを外してくれない〝香〟に少しだけ苦笑いをしながら、そのままトレイとトングを手にした。

 パン屋において私は最強の矛と楯を手にした。

 その時、香がハグをやめない理由を察した。

 香は我が身を呈して私を護ろうとしているのだ。

 私は気を引き締め、店内を見渡した。

 二割引をいいことにパンの争奪戦が繰り広げられている。

 はばかりもせずトレイにパンを山盛りに積んだ海千山千風情の猛者が、我が物顔で跋扈していた。

 OK、香。心配するな。

 私が欲しているのはカツサンドとクリームパンだ。

 ヤツらと、ことを構える気はない。

 私はコキリと軽く肩を慣らした。サッと前かがみになり駆け出した。

 あいつらはパンの積みすぎで動きが重い。私は突き出されるトングをくるりくるりとかわした。

 すばやくクリームパンをつかみトレイに積む。黄金色に照り輝くトレイを見やり、勢い余った身体をくるり反転、再び前かがみになりズサァッと足で勢いを止める。

 次はカツサンド。だが、抜かったな、どうやら残り一つのようだ。

 照準を定める。

 トレイを前に、トングをぐっと後ろに引く。両股を前後に開き、構えた。

 いただくっ!

 勢いよくトングを突き出した。

 だが――私のトングは鈍い音と共に空中へと舞った。

 背後から耳を突くアルミの音が上がった。

 ハッと振り返ると、無残にもトングが床に転がっていた。

 あられもないVの字に広がった姿に

「信じてるぜ、ヴィクトリー……」

 のメッセージを受け取る。

 私は涙をこらえ再び向き直った。

 猛者の内の一人がトングで遮ったのは明白だ。

 私の行く手を阻んだ猛者を見据えた。

 トングを失った私は丸腰も同然だ。

 だが、素手がある。諦めてなるものか。

 私は再びカツサンドに向かって、飛び出した。玉砕覚悟だ。

 その時、自動ドアが開いた。同時に突風が店内を駆け巡った。

 まさか…いや、今がチャンスだ!

 突風に驚いたのか、カツサンドを手中に収めようとしていた猛者のトングが止まっていた。

 私はその隙をみて、カツサンドを手に取り、トレイに載せた。

 その足でレジの前に立った。

 店内は一時騒然となったが、ドアが閉まると、もとの香りに包まれた。再びパンの奪い合いが始まった。

 私は会計を済ませると、ヴィクトリートングを拾い、目礼して主人に渡した。

 店を後にした。

 私にはわかっていた。

 突風のあと、再びもとの香りに包まれたとき、すでに私の〝〟は消え去っていたことを。

 

 家に着き、カツサンドを頬張る。

 ふと、カレンダーが目に留まった。

 7月7日。今日は七夕だ。

 だが、もう一つ。

 今日は、香りの日であった。